備忘録「歴史記述、情勢分析、一局の将棋、感想戦、観戦記、なぜ将棋に惹かれるのか」

梅田望夫氏のサイト「梅田望夫のModernSyogiダイアリー」に、9月24日、タイトルに記載のテーマがアップされた。
この内容は、公私ともにいろいろなところで応用が効くに違いない、大変役に立つ考え方だと感じたので、備忘録的に載せておく。


まず、池内恵氏の近著「中東 危機の震源を読む」(新潮社)からの引用(p346-7)
『われわれの記憶の容量は無限ではなく、過去の一瞬一瞬における文脈と、それぞれの時点で潜在的に存在した選択肢を記憶していることは不可能である。過去を振り返るには、現在の地点で判明している帰結から遡って脈絡を見出し、筋道を立てていくしかない。歴史記述とは結局この合理化の作業だろう。』


『しかしそれによって、肝心なことを忘れてしまいがちである。それは、いつの時点でも、将来はわからなかった、という当たり前の事実である。歴史上のどの時点も、過去の数知れぬ経緯の上にあり、未来に無限の可能性を秘めている。すべての当事者が、どの可能性がより蓋然性が高いかを全知全能を挙げて判断し、その結果として一つの現実が生じる。あとから見れば必然的で、定まっているように見える道筋も、その時点では誰も確かに予想できなかったのである。分からないからこそ、情勢を判断し将来を見通す営為に意味がある。その緊張感と臨場感こそ、本書で示したいことである。』


次に、この引用文を、梅田氏が将棋向けに改変した文章。
『われわれの記憶の容量は無限ではなく、一局の将棋の一手一手における文脈と、それぞれの局面で潜在的に存在した選択肢を記憶していることは不可能である。一局を振り返るには、終局の地点で判明している帰結から遡って脈絡を見出し、筋道を立てていくしかない。将棋記述とは結局この合理化の作業だろう。』


『しかしそれによって、肝心なことを忘れてしまいがちである。それは、いつの時点でも、将来はわからなかった、という当たり前の事実である。一局の将棋のどの時点も、その局面に至る数知れぬ経緯の上にあり、未来に無限の可能性を秘めている。二人の対局者が、どの可能性がより蓋然性が高いかを全知全能を挙げて判断し、その結果として一つの現実の局面が生じる。あとから見れば必然的で、定まっているように見える道筋も、その時点では誰も確かに予想できなかったのである。分からないからこそ、情勢を判断し将来を見通す営為に意味がある。その緊張感と臨場感こそ、本書で示したいことである。』


続いて、梅田氏のコメント。
『一局の将棋の推移を克明に語り尽くした本が仮にあるとして、その本の「むすびに」にこんなことが書かれていても、きっと誰も驚かないだろう。そのくらい歴史記述と将棋記述の在りようは似ており、情勢分析・判断と局面研究・指し手の関係は、構造的に酷似しているのだ。』


『いくつかの超一流の将棋対局に立ち会い、感想戦を傍らで眺め、観戦記を書いたり読んだりするなかで私が感じてきた将棋の魅力の深淵そのものが、まさに池内さんの自著を締めくくる文章の中にあらわれていたのである。』


『いま私は、この発見からとても大きな示唆と、将棋や自分の仕事について考えていく上での重要な素材を得た気がしている。』



梅田氏は、『歴史記述と将棋記述の在りようは似ており、情勢分析・判断と局面研究・指し手の関係は、構造的に酷似しているとおっしゃっている。全くそのとおりだと思う。


さらに、私たちの日々の営みのなかでも、『いつの時点でも、将来はわからなかった、という当たり前の事実』を踏まえて、『無限の未来の可能性のなかで、どの可能性がより蓋然性が高いかを全知全能を挙げて判断し、その結果として一つの現実の局面が生じさせ』るよう、しっかりと意識して取り組んでいかなければならないことはたくさんある。


その際、大切なことは、『あとから見れば必然的で、定まっているように見える道筋も、その時点では誰も確かに予想できなかった』という事実。こうした経緯をきちんと記録しておくこと、メモを残すことが大切なのだと思う。


そして、『分からないからこそ、情勢を判断し将来を見通す営為に意味がある。その緊張感と臨場感こそ』生きているあかしだと、前向きな心構えで毎日を過ごしていきたいと思う。